後方二列目右側より三人目
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仏教の戒律における二、三の問題  

研究発表 

 

ハンコ・ラスロ:
「仏教の戒律における二、三の問題」(日本語)印度哲学仏教学・第17号
(平成14年10月刊、
二二八~二三九頁)
 
小乗仏教とその巴利語の律蔵、又はその梵語で残されている断片の西洋人における研究は、十九世紀後半から今日に至るまでに盛んに行われている。その主な理由は、巴利語と梵語の知識だけでその研究がなしうるからである。それに対して、日本を始め、東アジアにおける大乗仏教の戒律の研究が、外国人研究者によってあまり熱心に行われていないのは、そのテーマが少々難解すぎると思われるためと、相当のレベルの中国語と日本語の知識を必要とするからである。それに、もう一つの問題は、別な宗教観と価値観、異なる文化を持っている外国人にとって、同じ研究対象を中国や日本の学者のように必ずしも同じ観点から見つめることが出来ないということも考えられる。特に外国人の側からその見方が一番異なっていると感じられる面は、恐らく下記のいくつかの問題であろう。

一、小乗教の場合は、教団の秩序を保つため、具足戒を公布し、そこで僧尼の生活全般について詳細を規定した。しかし、南山律宗を創立した道宣云く「受ける者、法界を量と為す、持てる者、麟角よりはなほ多し(1)」とあるように、その戒を完璧に保つ者は殆ど存在し得なかった。

二、東アジア大乗仏教の基本的な戒経である『梵網経』は偽経だということによって、大乗菩薩戒もその正当性を失うはずではないかと考えられる。

三、鑑真和上によって七五三年に日本に伝えられた具足戒は、嵯峨天皇が大乗菩薩戒を八二二年公認したことによって用いられなくなってしまったが、その後、公認を受けた菩薩戒さえもあまり守らなくなり、次第に無視される傾向となってしまった。

以上の点を踏まえてこの度、筆者は具足戒とその持戒の「抜け道」(戒を犯しても別な側面で許される)、キリスト教との比較、『梵網経』の正当性の問題と、『梵網経』の偽撰に係わっているいくつかの問題、それに、嵯峨天皇の大乗戒壇公認によって生じた日本仏教の変化による問題を西洋からの視点を交えて、簡単に取り上げてみたい。


小乗教の具足戒が説かれている「四律」(中国語訳が現存している)の中で、曇無徳部〔法蔵部〕の『四分律』は中国と日本の仏教史で大きな役割を果たした。『四分律』は、姚秦の首都である長安で、仏陀耶舎と竺仏念によって中国語に翻訳されている。その翻訳の年は、『梵網経』が成立したとされている四〇六年より五、六年後のことである。

『四分律』では、比丘の二五〇戒、比丘尼の三四八戒の具足戒が規定され、これを更にその破戒の重さとタイプによって、八聚(比丘尼の場合は七聚)に類別している。第一聚は、最も重い罪である波羅夷法である。断頭と不共住と訳されている。「譬えば人頭を断ずれば復た起たざるが如し。比丘亦復た是くの如し、此の法を犯す者は、復た比丘と成らず(2)。」つまり違反者の罪は斬首に匹敵するため、僧尼としての存続が不可能となり、教団から永久に追放されることを意味するのである。その中で比丘に対しては四波羅夷法がある。第一戒を婬戒とし、続いて盜戒・殺戒・妄語戒の順となるが、興味深いのは、大乗菩薩戒とは戒の順列(殺戒・盜戒・婬戒・妄語戒の順)が異なっている点である。ここから具足戒において婬戒が重視されていることが伺える。

第二聚は、僧伽婆尸沙(略して僧残)法である。もしこれに犯すれば、一定の期間、僧尼としての身分が失われるが、懺悔すれば、滅罪して教団に残ることが可能である。波羅夷法を除いての具足戒の共通性は、滅罪するためには懺悔する事で充分とするということである。

第四聚の尼薩耆波逸提(略して捨墮)法は僧尼共に三十戒があり、主に不正所得品の扱いについて示されている。違反者はその不正所得品である衣類・金銭などのものを僧伽に捨出し、その罪を懺悔することだけで滅罪することができるようになっている。

八聚までの守るべき戒が数多く示されている中で最も興味を抱く点は、「戒を犯すことの禁止」が存在する反面、その罪をまぬがれる道が存在することである。これを、筆者は「抜け道」と称するが、これは前述の波羅夷法と捨墮法の戒である「婬」と「物品の所有」に関して見ることができる。第三者に直接損害を与えるような波羅夷法の殺戒、盜戒や妄語戒には、「抜け道」はなかった。

『梵網経』では婬の問題は、第三重戒だけで取り上げられるのに対して、『四分律』では数多くの戒を通して婬戒はあまりにも重視されている。『梵網経』では、「一切の女人」と「畜生の女・諸天・鬼神の女」、又は「畜生、乃至、母・姉妹・六親」と婬を行ずることや、非道の婬(不自然な方法)を禁止している。これ等の行為を犯した場合、違反者は、手厳しく僧伽から追放される。これと対照的に、具足戒の場合は、婬戒の戒文でも書かれているように、戒を犯そうとする比丘に対して「抜け道」が存在する。いわゆる還俗と再出家がそれである。「若比丘...不捨戒...犯不浄行行婬欲法...是比丘波羅夷不共住」と。これは「戒を捨せずして...不浄行を犯し淫欲法を行ぜば...、是は比丘の波羅夷にして共に住せざれ(3)」という内容である。「戒を捨てる」とは一時的な還俗を意味している。これは、先ず戒を捨てて俗へ還れば、淫欲の行為をしようとも、罪にならないということである。しかも比丘の還俗と再出家については、律蔵により七回まで許されている。(ただし比丘尼は還俗した場合、二回目の出家は許可されない。)

捨墮法においても抜け道がある。これは、不正所得品を僧伽に捨出しなくても、戒を犯さずにこれを所有することが出来るようになっている、いわゆる「浄施法(4)」である。比丘は、自身が手離し難い物を形式的に他人に浄施し、結果としてそれを所有することが許される法である。

捨墮法を犯すことがあっても、違反者は三人までの比丘の前で懺悔することで赦される。捨墮法の中で、違反を犯し、比較的に重い罰が与えられると感じる戒は一つだけある。これは第二十二戒である。比丘の鉢に裂け目が出来ている場合、若し比丘が新しい自分の好む鉢を求めて、これを(優婆塞から)受けたら、彼はこの新しい鉢を「まさに往きて僧中に捨つべし。展転して最下の鉢を取りて之に与えて、乃し破るるに至るまで持せしむべし」と(5)

又、捨墮法第十八戒によれば、「若し比丘、自手にて金・銀、若しは銭を取り、若しは人をして取らしめ...、尼薩耆波逸提なり(6)」とあるが、興味深いのは、鑑真和上とこの戒の関係である。『唐大和上東征伝』は、「淮河と揚子江の間の一帯の地域で、正しく戒律を守っている者は、ただ大和上独りだけが秀れて、比べものにならないほどであった」と記されている(7)。しかし、鑑真はその第二回渡東準備の際、「正爐銭八十貫を出して、嶺南道採訪使劉巨麟の軍用船一隻を買い、十八人の水夫等を雇っていた(8)」。それに、船の積荷の中で「青銭十千貫、正爐銭十千貫、紫辺銭五千貫(9)」もあったことを見逃してはいけない。又、その第三次(10)の渡航計画を立てるとき、鑑真は、先に福州へ弟子法進などを遣り、船と食料を買わせていた(11)。淡海三船が著した『東征伝』の記載によれば、鑑真が大型船を購入できるほど破格の金額を所有していたのは実際に驚くべきことである。これは、決して三船が誇張して描いているものではない(12)。鑑真が、もし戒を一条一条厳密に守っていたなら、当時の日本仏教界が必要としていた典籍や儀式用の品々の入手や、鑑真自身の渡来も叶わなかったであろう(13)

『四分律』の成立について具体的なことは分からないが、疑いなく仏教の比較的古い典籍の一つであると言える。その戒律を守ることは至難であるのに、『四分律』はインドから中国へ、そして鑑真によって中国から日本へ伝えられ、今日に至るまで日本律宗の基本となった典籍である。西洋からその戒律をながめた時、前述した鑑真の例でも見られるように、ここに戒律を守るべきとする理想とそれに反する現実の違いを感じるのである。

ここで、キリスト教の聖書のいわゆる「掟」あるいは「戒」についてこの点で何が言えるのか、簡単に触れてみたい。

旧約聖書中の「十戒」はモーセ第二書「出エジプト記」二十章で書かれているが、仏教の戒律のように明確に句切りがないため、その戒を合計すれば、十以上になる。その中で明確で端的に表現されているのは、殺戒と姦淫戒、盜戒だけである。「殺すな」、「姦淫するな」、「盜むな」(同章十三~十五節)。例えば、殺人事件を犯した者は死刑に処される。「他人を打ち殺せば、殺される」(同書二十一章十二節)。これは、「目には目を、歯には歯を」との有名な掟である。

しかし、新約聖書においてイエスは新しい戒を公布しなかった。むしろ人間社会の根本的な規則はどういう精神で守るべきかということについて説いている。旧約と同様、人殺しは許されてはいない上に、その山上の説教で、さらに仁愛をも命じた。「あなたがたも聞いているとおり、目には目を、歯には歯を、と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(「マタイ伝福音書」第五章三十八~三十九節)。さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同四十四節)。又、姦淫することについては、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」とイエスは言っている(同二十八節)。

旧約聖書の掟は、ここでイエスに変えられて、新しい精神で使われるようになった。この点は『梵網経』の菩薩戒に類似している。相違を感じる点があるのは、イエスは神の子であったことに対し、『梵網経』の著者で菩薩戒をたてた人物は、無名未知の中国人だったということである。そのため、新約聖書の戒の正当性は失われず、戒を守らせる効力を更に発揮するはずであった。この観点から見れば、キリスト教の戒(=教え)は、具足戒、菩薩戒よりも強く守られたはずではないか?  

しかし、これはそうではないと考える。

具足戒で感じた、理想と現実の間の隔たりは、キリスト教の教えに際してもっと明確に見られる。それは、イエスの教えに従って生きていた人間は、どの時代でも、どの国でも、数多くいたが、ヨーロッパ(特に西欧)の歴史において、このイエスの理想が見られないのである。

例えば、十一~十二世紀は、イスラム教徒に占領されたエルサレムの聖地を取り返すために西欧諸国が七回にわたり「十字軍」を中東に派遣した事実である。又、キリスト教を国教とするスペインは、十六世紀前半アメリカ大陸へ軍を送り、インカやアステカ、マヤの国家や文明を滅ぼして、原住民を絶滅しようとした。十九~二十世紀の植民地化も、聖書で現れるキリスト教の精神と全く矛盾し、イエスの教えに完全に背く行為であった。人類の歴史の一番残酷なことは、恐らくドイツのナチ政権によるユダヤ人の大虐殺であろう。


大乗菩薩戒を取り上げている一番重要な経典には、『菩薩瓔珞本業経』略して『瓔珞経』、そして『梵網経』の二つがある。『瓔珞経』は竺佛念に、梵網経は鳩摩羅什によって中国語に翻訳されたということになっている。『梵網経』は一五〇〇年以上、釈迦が説いた真実の経典とみなされていたが、二十世紀に入り、これは偽経ではないかと言う諸説が生まれ、現在は広く偽経として扱われている。『梵網経』が偽経であることを、これらが日本へ伝来した当時、最澄を始め、他のだれも知るところではなかった。『梵網経』は菩薩の精神に深く満ちている、説得力のある優れた戒経であったから、その正当性に疑問を抱く事は全然なかったのである。

第三十九軽戒(14)によれば、絶えず、どんな境遇でも、『梵網経』の戒を読誦、講説しなければならないから、使っている言葉はその成立当時の口語に近い中国語である。その中国語で書かれた『梵網経』の経典に出てくるいくつかの言葉はもともと中国だけで使っている言葉で、決してサンスクリットから翻訳されたわけではないのである。その例として、第三十三軽戒(15)によって禁止された色々な遊び方があるが、この中で中国で出来、中国だけで遊んでいた遊戯もある。その一つである弾碁 (tánqí だんご) と呼ばれる遊びは、盤上ゲームで、紀元前一世紀の劉向が漢代の成帝のために発明した遊びである、と四世紀の『西京雑記』で示されている。もう一つは、周代の中国で客をもてなす投壺 (tóuhú とうこ)という遊戯であり、その遊び方については中国の五経の一つである『礼記』で詳しく解説されている。

また、別の側面では、中国の北部を統一した前秦が三九四年に亡ぼされてから四三九年に北魏によって統一されるまでの間は、いくつかの小さな国々が優位を得るためにお互いに戦いあっていた大変に混乱した時代であった。この混乱期の中、『梵網経』が成立したとされている。ここで考えられるのは、こうした社会的背景を憂慮して、交戦国間に仲介することと、戦争をかきたてることなどを許さない第十一軽戒(16)が成立したのではないかということである。この『梵網経』を読んで目立つのは、終始一貫「皇帝」という言葉が用いられず(中国で「皇帝」という言葉は統一された国家にのみ使われた)、それに代わって小国の君主である「王」という表現だけが使われているため,当時の社会背景をここから読み取る事ができる。『梵網経』の正確な作者については何も知ることができない。その偽撰の時代はちょうど鳩摩羅什を中心とする経典翻訳が一番盛んである時代であったから、後代になって、かねてから名声が高い鳩摩羅什を翻訳者と見なし、四〇六年に『梵網経』が漢訳されたと考えられた。 

もう一つ、『梵網経』が中国偽撰であるとされることは、『梵網経』の中ではっきりと感じられる儒教の影響である。「孝名為戒」(孝を名けて戒と為し)というように、「戒」は「孝」と同じものとして扱われている。それに、すべての重戒では、菩薩が常に慈悲の心や孝順の心を起こさなければならないと命じられている。父母に対して孝順を示すことはいくつかの軽戒の中でも出てくる。 

このように見てくると、筆者には本来インドから伝来された仏教が、中国において時代の必要性に応じて変化し、また民衆に広く受け入れられるように儒教という思想を基盤に仏教を解釈していったということがよく実感されるのである。 

また、西洋文化圏に属している人間が『梵網経』のことを客観的に見ようとする時、一つの問題に直面することだろう。それは、偽経である『梵網経』の戒を守るという背景には、キリスト教における絶対的な権威を持っている神の存在や、少なくとも小乗教の仏のような存在というものが感じられないということである。例えば、ヨーロッパ中世のキリスト教の場合、自分自身の行動が正しいかどうか、神の道に従っているかどうかというように、常に神の存在を生活の中で意識しており,それは精神的な圧迫感に似たものであった。それに対して、『梵網経』の戒は、従来のいわゆる小乗の戒と異なって、あたかも人間の基本的な行動を整理するルールのように思われ、この点でキリスト教におけるような精神的圧迫感は感じられない。十重戒に反することはこの戒経でも「菩薩波羅夷罪」と言われているが、小乗戒と違って、違反者は僧伽から追い出されるということはなく、第四十一軽戒(17)によれば、仏・菩薩の形像の前で懺悔することだけで罪を滅することが出来るとされている。四十八軽戒に反する場合は、一人の師に対して懺悔することで罪が滅せられる。七逆罪に反する場合を除いて、だれでも受戒することができ、僧伽から追い出されることはない。西洋の感覚から、このような違反と罰という扱い方を見た時、曖昧でゆるやかなものに感じられてしまうのである。また逆に、日本人がキリスト教を表面的にとらえた時、神に懺悔する事でその罪が滅せられるのではないかと感じる事だろう。しかし、ヨーロッパ中世のキリスト教では、神に罪を懺悔しても、いつか罰が与えられるのではないかという恐れが死に至るまで心の奥深くつきまとうのである。

次に、大乗戒は『菩薩地持経』の第四品の中で「三聚浄戒」と名づけられている。その三聚浄戒の第一は「律儀戒」である。まずこの律儀戒は重戒と軽戒の二種に大別され、さらに重戒と軽戒について、『梵網経』において十重戒と四十八軽戒に分類されている。第二に摂善法戒(自利のために善法を修する戒)第三に摂衆生戒(一切衆生を包容して広く利益を与えようとする戒)がある。第一の律儀戒には具体的な戒の事例が含まれるが、第二、第三のこの戒は具体的な事例を用いるという戒ではなく、どのような精神で戒を守るかと言う極めて内面的なことに基づいて説かれている。

三聚浄戒の一番興味深い特徴は、大乗教の菩薩精神が現われる律儀戒の中の重戒と軽戒は小乗教の処罰規定である具足戒によって補足されているという点である。この具足戒はもともと小乗教だけで用いた戒律である。小乗教の比丘は『四分律』によると二五〇戒で、比丘尼は三四八戒だけで十分、受戒することが可能であった。それに対して、大乗教の僧侶はこの具足戒のほかに菩薩戒も受戒することを義務づけられて、小乗僧侶よりもっと多い戒を守らなければならない状態に置かれていた。従来、具足戒の受戒は大和の東大寺、関東の薬師寺と博多の観音寺の三箇所の戒壇で実行されていた。しかし、八二二年最澄が入寂した七日後、大乗菩薩戒は嵯峨天皇によって公認され、大乗僧侶に対しての具足戒の受戒は不要となってしまった。菩薩戒の受戒だけで僧侶になり得ることは日本以外ではどの国でも不可能だったが、日本だけでこの菩薩戒の受戒形式を行ったのだ。嵯峨天皇が菩薩戒を公認したことは疑いもなく政治的な背景が考えられるが、この思い切った措置の一番大きな重要さは、日本の仏教がその後、独特の道を選ぶことが可能となり、中国と違った方向へ発展することが出来たということである。 

菩薩戒の公認は戒律のその後の進展にも大きな影響を与えた。第一に、鑑真に建立された唐招提寺を中心とした律宗は急速にその重要的な地位を失ってしまい、鎌倉時代の覚盛、叡尊や忍性は戒律復興運動を遂行しようとしたが、飛躍的な発展を遂げることは出来なかった。第二に、鎌倉時代において、戒律を前とは異なった意味で説明したり、戒律を捨てたりする新しい宗派が誕生した。その例として、曹洞宗の道元は『永平清規』を著し、臨済宗の栄西は『出家大綱』を著した。浄土宗の法然は、戒律によって自力でも極楽に往生することが出来るという錯覚が生まれ、阿弥陀仏への信仰心を失う恐れがあるとして、それを捨てた。しかし、法然は、彼が自寂するまで戒律を守りつづけた。それに対して浄土真宗の親鸞は、自ら結婚し肉も食べ、戒律に全く背く生活をしていた。戒律を表面的に棄てない宗派でも菩薩戒をますます守らないようになってきた。『梵網経』は殺生を禁ずるだけでなく、第十軽戒(18)で武器を所有することさえ許していないことにもかかわらず、比叡山の僧侶は武器をもって戦うこともしばしばあったと言われている。

このように、日本天台ではインドの曇無德部の真正な戒経である『四分律』の戒に依拠する必要はなくなり、偽経である大乗戒経の菩薩戒が用いられるようになったが、時代の流れとともにその菩薩戒さえも今ではほとんど守られなくなったのである。

最後に、この戒律の変化から感じた筆者の意見を述べさせていただきたい。

日本の仏教は大乗戒の公認によって独特の道を歩みはじめたことにより、大きな変化が生まれた。もし天台宗の大乗戒壇が公認されなかったら、天台宗が滅亡に至るだけでなく、日本における大乗仏教の将来も難しい状態に置かれたことだろう。廃仏が九世紀も、十世紀も再三起こった中国と逆に、日本では大乗仏教の発展に新しいチャンスが与えられた。それに、この仏教はきびしい教義に固執しなかったことも忘れてはいけない。キリスト教の本質である神の存在が、宗教全体を通して影響力を強く持ち、変化を許さないという流れが日本仏教にはないために、独自の自由な発展が可能になったのではないかと思われる。平安末期から多様多彩の宗派が出来、仏教的な文学や建築、絵画が栄えるようになった。私が敢えて言い添えたいのは、大乗戒を余り守らないこともこの発展を促進する要素になったのではないかと言う事である。例として『梵網経』の第二十九軽戒(19)を挙げてみると、晝画・彫刻などに上達することは許されていないと規定されている。十二世紀、天台宗の僧侶である鳥羽僧正が描いた鳥獣戯画は菩薩戒の選択的な遵守によって出来たものではないだろうか? 私がここで焦点を置きたいところは、日本における特殊な文化の発展の要因は、日本人の飛鳥時代から鎌倉時代までにかけての仏教の受容過程で洗練された順応性(フレキシビリティー)と選択能力である。そもそも大乗菩薩戒の公認とは、その順応性と選択能力によって生み出された結果ではないだろうか?これと同じように、明治維新の時、及び世界大戦後、日本が成功したこともここに由来すると思っている。
〔註〕

(
)  『四分律行事鈔』巻中一、『大正蔵』四十巻五十頁上。
(
)  『四分律』巻一、『大正蔵』二十二巻五七一頁。
(
)  『四分僧戒本』四波羅夷法、第一、婬戒:「若比丘与比丘共戒同戒。不捨戒戒羸不自悔。犯不浄行。行淫欲法。乃至共畜生。是比丘波羅夷不共住。」
(
)  『四分律』巻一、『大正蔵』二十二巻八六六頁。
(
)  『四分僧戒本』捨墮法、第二十二、乞新鉢戒:「若比丘破鉢。減五綴不漏。更求新鉢。為好故。若得者尼薩耆波逸提。彼比丘応往僧中捨。展転取最下鉢与之令持乃至破。」
(
)   同前書、捨墮法、第十八、受蓄金銀銭戒:「若比丘自手取金銀若銭。若教人取...尼薩耆波逸提。」
(
)  『唐大和上東征伝』:『大日本仏教全書』七十二巻二十八頁上、十四~十五行: 「淮河江左浄持戒者、唯大和上独秀無倫。」
(
)   同前書、二十五頁上、五~八行:「大和上...仍出正爐八十貫銭。買得嶺南道採訪使劉巨麟之軍舟一隻。雇得舟人等十八口。」
(
)   同前書、二十五頁上、二十四~二十五行。
(10)  一説には、同前書、二十五頁下、十一~十四行で短く書かれている榮叡の逮捕と釈放のインテルメッツォは鑑真和上の第三次渡航と見なされている。
(11)  同前書、二十五頁下、十七~十八行:...乃遣僧法進...。将軽貨往福州買船。具辨糧用。」
(
12)  『唐大和上東征伝』は、三船によって著されているが、それは、始終鑑真の元を 離れず、一緒に日本に渡来した中国僧・思託の著書『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(或いは『広伝』)の内容に密接に準拠している。『広伝』は、鎌倉時代以後失われてしまったが、中国の学者である汪向榮は、これを日本の典籍からの逸文を用いて部分的に復元し、その著作『唐大和上東征伝』で(北京、一九七九年)発表したのである。
(
13)  『東征伝』(同二十五頁上、八行~二十六行)で、鑑真がその第二回渡東に準備した将来品の内容はとても詳しく記載されている。ただし、渡航は破船で失敗して、積荷も、金銭も全て失った。鑑真が七五三年に将来したもののリストには、典籍の記載がきわめて詳しい。(二十八頁下)
(
14)  『梵網経』第三十九軽戒:...菩薩応為一切衆生講説大乗経律。若疾病国難賊難。父母兄弟和上阿闍梨亡滅之日。及三七日乃至七七日。亦応読誦講説大乗経律。...大火所焼大水所漂。黒風所吹船舫。江河大海羅刹之難。亦応読誦講説此経律。乃至一切罪報三報七逆八難。杻械枷鎖繋縛其身。多婬多瞋多愚癡多疾病。皆応読誦講説此経律。...
(
15)  『梵網経』第三十三軽戒:...不得摴蒲圍碁波羅賽戯弾碁六博拍毬擲石投壺...
(
16)  『梵網経』第十一軽戒:...不得為利養惡心故。通国使命軍陳合会。興師相伐殺無量衆生。...
(
17)   『梵網経』第四十一軽戒:...和上阿闍梨...応問言。汝有七遮罪不。若現身有七遮。師不応与受戒。無七遮者得受。若有犯十戒者応教懺悔。在仏菩薩形像前。日夜六時誦十重四十八軽戒。若到礼三世千仏得見好相。若一七日二三七日乃至一年要見好相。好相者。仏来摩頂見光見華種種異相。便得滅罪。若無好相雖懺無益。是人現身亦不得戒。...若犯四十八軽戒者。対首懺罪滅。...
(
18)   『梵網経』第十軽戒:...不得畜一切刀杖弓箭鉾斧鬪戦之具。及悪網羅殺生之器。」
(
19)   『梵網経』第二十九軽戒:「若仏子。以悪心故為利養故…呪術工巧調鷹方法。...都無慈心。若故作者。犯軽垢罪。」
 
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